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横浜市西区の株式会社
ビクトリー 古賀光昭  
 

教育論──尊厳と誇りを育てる学びの再設計

 

序章:教育とは何か──人間の尊厳を育てる場としての再定義

 

教育とは何か──この問いに、私は改めて向き合っています。

教育とは、知識を教えることです。けれど、それだけでは足りません。

教育とは、人が人として生きる力を育てる営み。
つまり、「どう生きるか」を静かに示す場だと、私は考えています。

家庭論をまとめたことで、私の思想体系に一本の軸が通りました。
人間中心哲学から家庭論が生まれ、そこから経済や政治、そして教育へと静かに展開していく。
その流れの中で、教育とは何かを問い直すことは、避けて通れない課題でした。

家庭は、制度でも機能でもなく、
人間の感受性・誠実さ・敬意・尊厳を育てる場です。

そして教育もまた、制度の中で行われるものではありますが、
その本質は、制度の外側にある人間性の育成にあります。

教育とは、「してはいけないこと」を教える場でもあります。
人を傷つけてはいけない、嘘をついてはいけない──
そうした基本的な倫理は、社会の秩序と人間関係の土台をつくります。

けれど、それだけでは足りません。

教育とは、「どう生きるか」を静かに示す場。
誠実に働く姿、感謝を伝えるふるまい、他者を敬う態度──
そうした模範が、言葉以上に子どもたちの心に残ります。

それは、問いを持つ個人を育て、
その人の尊厳を守りながら、未来を信じて任せる営みです。

「任せる」とは、放任ではありません。
その人が自分の力で考え、選び、動くことを信じること。

教育とは、信頼に基づいた尊厳の実践なのです。

この教育論では、
学び方の違い、教える人の姿勢、歴史教育と誇り、制度の限界、未来の教育、そしてふるまいの美しさ──
それらを一つひとつ丁寧に問い直しながら、
尊厳と誇りを育てる教育のあり方を探っていきます。

それは、制度の外側から社会を支える、静かな営みの再設計でもあります。

 

 

第1章:学び方の違い──「落ちこぼれ」を生まない構造へ

教育の現場では、しばしば「落ちこぼれ」という言葉が使われます。
けれど私は、その言葉に違和感を覚えます。

本当に「落ちこぼれ」ているのは、生徒でしょうか。
それとも、学び方の違いを認めない教育の構造のほうではないでしょうか。

私はドラッカーの言葉から、大切なことを学びました。
人にはそれぞれ、異なる学び方があるということです。

読むことで理解する人もいれば、聞いて吸収する人もいる。
実際に動いて体験することで学ぶ人もいる。
どれも、その人にとって自然な学び方です。

けれど、教育制度はしばしば「唯一の正しい学び方」を前提に設計されています。
教科書を読み、板書を写し、テストで答える──
この方法が合わない人は、「理解できない人」「成績が悪い人」とされてしまう。
そして「落ちこぼれ」というレッテルを貼られるのです。

これは、本人の能力の問題ではなく、構造の問題です。
教育が「画一的な方法」に偏ることで、
本来の力を発揮できない人が生まれてしまう。

それは、教育が人間の尊厳を守れていないということでもあります。

人間中心哲学の立場から見れば、
教育とは「教えること」ではなく、その人の学び方に寄り添うことです。

問いを持つ個人に対して、
その人が自分の方法で学び、育っていくことを信じて任せる──
それが、尊厳ある教育の姿だと私は考えています。

「落ちこぼれ」を生まない教育とは、
すべての人の学び方を尊重する教育です。

それは、制度の効率ではなく、
人間の違いに対するまなざしから始まります。

このような学び方の違いに対して、教育はどう対応していくべきか。
それは、まず「教える人の姿勢」から始まります。

次章では、教師や親がどのようなふるまいで子どもに向き合うべきか──
模範とまなざしの力について、静かに考えてみたいと思います。

 

 

第2章:教える人の姿勢──模範とまなざしの力

教育とは、制度や教材だけで成り立つものではありません。
それ以上に大切なのは、教える人の姿勢です。

教師や親がどのようなふるまいで子どもに向き合うか──
それが、教育の質を決定づけるのです。

子どもは、言葉よりもふるまいを見て育ちます。
誠実に働く姿、感謝を伝える態度、他者を敬うまなざし──
そうした日々のふるまいが、子どもの心に静かに染み込んでいきます。

家庭論でも述べたように、家庭は「どう生きるか」を学ぶ場です。
それは、教育の原点でもあります。

親が子どもに尊厳をもって接することで、
子どもは自分自身を尊び、他者にも誠実に向き合う力を育てていきます。

学校でも同じです。
教師が生徒に対して、信頼と敬意をもって接すること──
それが、生徒の尊厳を育てる第一歩です。

逆に、管理や評価ばかりが前面に出ると、
生徒は「測られる存在」として自分を見てしまいます。

教育とは、単に情報を伝えることではなく、
生き方の模範を示すことです。

教師や親が問いを持ち、誠実に生きる姿を見せることで、
子どもは「自分もそうありたい」と思うようになります。

また、教える人が「この子はこういう学び方をする」と気づくことができれば、
その子に合った支え方が自然に生まれます。

それは、学び方の違いに対応する第一歩でもあります。

教育の本質は、制度ではなく人間性にあります。
そしてその人間性は、教える人のまなざしとふるまいによって育まれるのです。

次章では、教育の中でも特に思想的な影響が大きい「歴史教育」について、
自国への誇りを育てるという視点から、静かに問い直していきたいと思います。

 

 

第3章:歴史教育と誇り──自国を語る力を育てる

教育とは、知識を教えることでもあります。
その中でも、歴史教育は特に思想的な影響力が大きい分野です。

どのような歴史を、どのような視点で教えるか──
それによって、子どもたちの「自分の国へのまなざし」が大きく変わっていきます。

日本は戦後、東京裁判を経て、
「戦争責任」や「加害者意識」を中心とした歴史観が教育現場に根づきました。

日教組という組織が形成され、
一部の教員によって「反日的」とも言える教育が行われた時期もあります。

もちろん、戦前の軍国教育には行き過ぎた面がありました。
けれど、戦後の教育ではその反動として、
自国への誇りを語ること自体が避けられるようになった──
これは、他の国では考えられない状況です。

たとえばアメリカでは、建国の理念や国旗への敬意を自然に教えます。
フランスでは、革命の歴史を誇りとして語ります。
中国や韓国でも、自国の文化や歴史を肯定的に伝えます。

それに比べて、日本では「自国を語ること」に過剰な遠慮があるように感じます。

私は思います。
日本は、世界に誇れる国です。

勤勉さ、誠実さ、礼儀、技術力、自然との共生──
そうした価値を育んできた歴史を、
誇りをもって語る教育が必要ではないでしょうか。

自国の歩みを誠実に見つめ、
未来に活かす力を育てること──
それが、歴史教育の本質だと私は考えています。

教育とは、単に事実を伝えることではなく、
その事実をどう受け止め、どう生きるかを考える力を育てる場です。

歴史教育もまた、誇りと問いを育てる営みであるべきです。

自分の国に誇りを持てる人は、
他国の文化や歴史にも敬意をもって向き合えます。

それは、排他ではなく、健全な自己肯定感の土台です。

次章では、教育制度の限界と、制度の外側から支える静かな営みについて、
家庭論との接続を踏まえながら考えていきたいと思います。

 

 

第4章:制度の限界と外側──教育を支える静かな営み

教育は、制度の中で行われます。
学校という場、学年という区分、教科という枠組み──
それらは、社会の中で教育を機能させるために必要な構造です。

けれど、制度には限界があります。
すべての子どもに同じ時間、同じ方法、同じ評価を求めることは、
人間の違いを見えなくしてしまう危うさを含んでいます。

たとえば、学び方の違い。
第1章で述べたように、人にはそれぞれ異なる学び方があります。
けれど制度は、効率や公平性を重視するあまり、
その違いに十分に対応できないことがあります。

また、教える人の姿勢。
第2章で触れたように、教師や親のふるまいが教育の質を決めます。
けれど制度の中では、評価や管理が優先され、
まなざしや模範の力が見えにくくなることもあるのです。

だからこそ、教育には「制度の外側」が必要です。
それは、家庭での対話、地域での支え、
そして一人の大人が一人の子どもに向き合う、静かな営みです。

たとえば、リタイヤされた方々が、
地域の子どもたちに静かに寄り添い、話を聞き、問いを返すような場面。

それは、制度では生まれにくい、人間的なまなざしの教育です。

彼らは、競争や評価から離れたところで、
人生の経験をもとに、子どもたちの尊厳に触れることができます。

それは、教えるというよりも、支えるというふるまいです。

こうした営みが、家庭や地域の中に自然に根づいていけば、
教育は制度の限界を超えて、
人間の営みとしての深さを取り戻していくでしょう。

家庭論でも述べたように、家庭は制度ではなく、
人間の感受性と誠実さを育てる場です。

教育もまた、そうした場を必要としています。

次章では、AI時代を見据えながら、
問いを持つ個人を育てる教育の未来について、静かに考えていきたいと思います。

 

 

第5章:未来の教育──問いを持つ個人を育てる構造へ

教育は、時代とともに変化します。
かつては「知識を教えること」が中心でしたが、
今や、情報は誰でも手に入れられる時代になりました。

AIの進化によって、学びの形も大きく変わろうとしています。
けれど、教育の本質は変わりません。

それは、問いを持つ個人を育てること。
つまり、「どう生きるか」を自分で考え、選び取る力を育てる営みです。

AIは、情報の整理や個別最適化において、大きな可能性を持っています。
一人ひとりの学び方に合わせて、教材や進度を調整することも可能になるでしょう。

それは、第1章で述べた「学び方の違い」に対応する構造的な進化でもあります。

私は、AIを過小評価しているわけではありません。
いずれ、AIは人間のように問いを持ち、ふるまいを理解する存在になるかもしれません。

けれど現時点では、AIが担えるのは情報の伝達と整理までです。

問いの意味を受け止め、ふるまいの美しさを感じ取ること──
それは、まだ人間の役割です。

問いとは、単なる疑問ではなく、
「自分は何者か」「どう生きるか」「何を大切にするか」といった、
生き方に関わる根源的な問いです。

こうした問いは、他者との対話の中で育まれます。

教師や親、地域の大人──
誰かがその問いに耳を傾け、
「それは大事な問いだね」と受け止めることで、
子どもは自分の問いを信じることができるようになります。

未来の教育とは、AIと人間の役割を分けることではなく、
人間の尊厳を中心に据えた構造を再設計することです。

情報の伝達はAIが担い、
問いとふるまいの育成は人間が支える──
そうした分担が、教育の質を高めていくでしょう。

そして、教育の場は学校だけではなくなります。
家庭、地域、対話の場、そして静かな営みの中で、
問いを持つ個人が育っていく。

それが、未来の教育の姿だと私は考えています。

次章では、教育の中でも最も日常的でありながら深い意味を持つ「ふるまい」について、
その美しさと力を静かに考えていきたいと思います。

 

 

第6章:ふるまいの美しさ──男性らしさ・女性らしさと教育の役割

ある会社で、新卒の男女十名ほどの教育を担当したときのことです。
一所懸命に仕事に取り組む女性たちの姿を見て、私はふと、こう思いました。

「もし外国が攻めてきたら、この子たちのために命をかけて守るだろうな」と。
その感覚は、理屈ではなく、人間としての自然な衝動でした。

そして思ったのです。
先の戦争で命をかけて戦った男性たちも、
きっとこのような気持ちで、日本の女性を守ろうとしたのではないか──と。

日本の女性には、誠実さ、やさしさ、芯の強さといった、
言葉にしがたい美しさがあります。

それは、男性が守りたくなるような、
そして社会全体を支えるような、静かな力です。

だからこそ、私は思います。
男性は男性らしく、女性は女性らしく生きること。

それを教育の中で、ふるまいの美しさとして育てることが大切ではないかと。

もちろん、性同一性障害や多様な性の在り方を持つ人々を排除してはなりません。
それぞれの事情を理解し、尊重することは、人間中心哲学の根幹です。

けれど、そうではない人にとって、
「男らしさ」「女らしさ」を育てることは、
自分らしさを誇りに変える営みでもあるのです。

男性が責任を持ち、守る姿勢を示すこと。
女性が誠実に働き、まわりにやさしさを広げること。
それぞれのふるまいには、役割ではなく、美しさがあります。

現代の教育では、多様性を認めることが目的化されすぎて、
「男性らしさ」「女性らしさ」を語ること自体が避けられる風潮もあります。

けれど、それは「誰もが自分らしさを見失う未来」につながる危うさもあるのです。

教育とは、違いを否定することではなく、
それぞれの在り方の美しさを深く理解し、尊重すること。

「ぼやける」のではなく、「深まる」方向へ──
それが、誰もが幸せになれる教育のあり方だと私は考えています。

この章は、誰かの在り方を否定するためのものではありません。
むしろ、それぞれのふるまいの美しさを深く理解し、尊重するための問いかけです。

 

 

第7章:尊厳と誇りを育てる教育──静かな再設計の提案

教育とは何か──
この問いに向き合いながら、私は一つの確信にたどり着きました。

それは、教育の本質が「尊厳と誇りを育てる営み」であるということです。

知識を教えることも、ルールを伝えることも、制度を整えることも、
すべてはそのための手段にすぎません。

教育の中心にあるべきものは、人間の尊厳と、自分らしさへの誇りです。

第1章では、学び方の違いを認めない構造が「落ちこぼれ」を生むことを問い直しました。
第2章では、教える人の姿勢が教育の質を決めることを見つめました。
第3章では、歴史教育における誇りの育成を提案しました。
第4章では、制度の限界と、外側から支える営みの力を描きました。
第5章では、AI時代における問いの育成と構造の再設計を考察しました。
第6章では、ふるまいの美しさとしての男性らしさ・女性らしさを教育の中で育てる意義を語りました。

これらすべては、人間の尊厳を守り、誇りを育てる教育へとつながっています。

教育とは、「測る」ことではなく、「見守る」こと。
そしてもちろん、「教える」ことでもあります。
けれど、それだけでは足りません。

教育とは、「信じて任せる」こと──
その人が自分の力で考え、選び、動くことを信じる営みです。

そして何より、教育とは、
その人がその人らしく生きることを支える営みです。

私は、教育を再設計したいと思っています。
それは、制度を壊すことではなく、
制度の外側から静かに支える力を育てること。

家庭、地域、対話、そしてふるまい──
そうした営みの中に、教育の未来があると私は信じています。

尊厳と誇りを育てる教育。
それは、誰かを変えるためのものではなく、
その人の内側にある力を信じて支えるためのものです。

この教育論が、誰かの問いに寄り添い、
静かな力となることを願っています。